俺は、私は、まだ落ちぶれていない。
まだまだイケる。
男も女も、人生の中の40代という時期は、そんな心の葛藤との戦いである。
しかし無情にも現実は、必死に崖にしがみつくその指を、一本一本剥がしにかかってくる。
夜の電車の窓に映る自分の顔だったり、若い子の反応にちょっと自信を失ったり、そんな小さなことが積み重なって、崖にしがみつく指にだんだん力が入らなくなっていく。
もういっそのこと全てを諦めて、ストンと崖下に落ちてしまえばよっぽど楽なのではないだろうか、と思ってしまうこともある。
先日私は仕事の接待で、とある小料理屋にいた。
その店はカウンターだけの小さな店で、得意先の男性と弊社の人間と三人で飲むために、カウンターのL字の角の席を確保してもらっていた。
私たちは、特にとりとめもない話をしながら、お店のおかみさん自慢の料理と地酒をいただきはじめた時だ。
「ほら、僕って、ダイビングが趣味じゃない?」
私の意識がその声の方向へ吹き飛んだ。
その人物は、男としての人生に諦めを得ていない中年ダイバーだった。(年の頃は私と同じ40代後半)
大事な客先の接待中にも関わらず、私の意識は完全に右隣の男性に向きはじめてしまった。
「僕はね、えーと月に1度くらいかな? 沖縄で、あ、慶良間のほうね。潜るのが好きなの。」
と、スマホを取り出し得意げにカクレクマノミの写真をお店の女の子に見せている。
20代前半くらいのそのお店の女の子は、
「えーー!キレイ!!毎月、沖縄行ってるんですか〜??スゴーイ!!お魚、カワイイーーー!」
と、98%くらい営業トークで対応している。
「でしょでしょ? ダイビングのライセンスとれば、こんなのいつでも見れるんだよ!!教えてあげるからさ!!!」
そして彼がさらっとスマホの画面をスクロールした時、飛行機が背景の、満面の笑みで自撮りした「おっさん in 空港」の写真が見えた。
空港で自撮りするおっさんは、アカン。
これは、女子の中では暗黙の了解である。
空港で自撮りしてしまうおっさんには、薄っぺらい自己顕示欲が強めで、何かしら満たされない心の背景があると確信している。
ちょっと。
同じダイバーとして恥ずかしいじゃないのよ。
いや。
私が恥ずかしがることではないのは、理性ではわかっている。
だが、ダイバーという生き物は、
「世の中には2種類の人間しかいない。
ダイバーか、ダイバー以外か。」
それくらい言い切ってもいいほど、謎の連帯感がある。
だからこそ、若い女の子に対して醜態を晒しているこのダイバーをどうにか制止させたい、と余計なおせっかい心が湧き出てしまった。
「ありおなさん?」
おっと、まずい。
すっかり隣のダイバーに気を奪われてしまい、肝心の接待がすっかり上の空だった。
この中年ダイバーは、相変わらず自撮り写真を織り交ぜながら、お店の女の子への執拗なアプローチを続けている。
「はい!ここで質問です! 海の中でトイレをしたくなったら、どうするでしょーか?!」
うわ。最悪。
このダイバー、酔いも手伝っておかしな質問をし始めている。
もうすでに、接待なんかどうでもいい。
彼に心を奪われているのは、完全に私の方だった。
この人、まさか隣にダイバーがいるとは思わずにこんな話をしているのだろう。
アンタが思ってるよりも、ダイバーは世の中多いんですよ。
ダイバーであることをネタにして女を口説くなら、もう少し知性溢れる口説き文句を考えてから出直してきな。
私はダイバーとして、この男に辱めを加えてやりたい衝動に狩られてしまった。
気がつくと私を抜いた接待チームが温泉の話で盛り上がっていたが、正直それどころではなかった。
もうなんか、このやり場のない衝動を抑えきれずにいた。
この流れをブチ壊したい。
「あ、あの!!」
「ぶっちゃけ私、ダイバーなんです。」
隣のダイバーに聞こえるように言った。
自分を抑えきれなかった。
視界の片隅で、彼のスマホをスクロールする手がピタッと止まったのが見えた。
あ、温泉の話をしているところに、脈絡のない話をブチこんでしまった。
しかもなにが「ぶっちゃけ」だ。
隣のダイバーに感化されて、私も挙動不審なダイバーになっている。
得意先の方に対して、「ぶっちゃけ」もないだろう。
私は慌てて、先日の石垣島での海底温泉の話を付け加えた。
が、しかし、闇雲に石を投げればダイバーに当たってしまう世の中だということを知らないのは、むしろ私だったようだ。
「私も実はダイバーでしてね。」
得意先のおじさんがポツリと呟いた。
まじか!((( ;゚Д゚)))
もう長らくダイビングはやってないんだけどね、とゆっくりと口を開きはじめた。
2本しか潜ったことのない時にパラオに連れていかれ、水中銃をもたされ狩りをしたこと。
大きな魚に刺さったのはいいが、ものすごい勢いで海底に引きずられてしまい死ぬかと思ったこと。
激しいカレントに巻き込まれ、ウン十万するカメラ片手に必死に岩にしがみついていたら、マスクが頭の横にくるっと回ってしまい、手を離してマスクを直すか、カメラを手放すかの究極の選択に迫られたこと。(結局カメラは手放す勇気がなく、カメラごと自分が流され生還したらしい)
ヤバそうなサメに出会ったとしても、ヤツらはだいたいその時に高まる人間の心臓の鼓動を感じ取り、それが怖くて逃げていくんだよ。けれど逆にそれを面白がっちゃうのがホオジロザメでね、かじっちゃうのね。(真偽の程はよくわかりません)
話のスケールが、遥か斜め上をいっていた。
得意先のおじさんは、話しているうちに調子良くなってきてしまって臨場感あふれる身振り手振りで、まだ規制が緩かった時代の海の話を延々と語り続けた。
右隣のダイバーに口説かれていたお店の女の子が目をキラキラさせて、「ええっ!ホントですかーーー!すごーーい!!」と得意先のおじさんの話に釘付けになっていた。
ふと右隣をみると、例のダイバーは小さく背中を丸めて、チビチビと日本酒をすすっていた。
この出来事に勝敗をつけるならば、得意先のおじさんの圧勝だった。
図らずとも、彼への辱しめ計画は達成されてしまった。
私としては、ここまで彼をやり込める気はなかったので、なんだかこのタイバーが気の毒になってしまった。
会計を済ませ領収書を待っている間、傷心の彼にそっと声をかけた。
「いつか、どこかの海で。」
「ええ、そうですね。」
彼には、ダイバーとしても男としても、諦めずに年齢の崖を逆行するほどに立ち直って欲しい。
私も命からがら崖にしがみついた指の力を、いつまでも緩めずにいたいものだと思った。
ただでさえ寒い1月の夜風が、さらにさらに寒く痛く感じる夜だった。
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